2019-10-24 第200回国会 衆議院 安全保障委員会 第2号
当時の政府は核抜き本土並みの返還を強調しておりましたが、そのことについても私たちが懸念しているのは、単に法制度上の本土並みということだけではなく、基地の機能や規模、密度等に至るまで十分に考慮が払われているかどうかということであります、このように述べております。 当時、こういう意見書が出されていることは大臣もおわかりですよね。
当時の政府は核抜き本土並みの返還を強調しておりましたが、そのことについても私たちが懸念しているのは、単に法制度上の本土並みということだけではなく、基地の機能や規模、密度等に至るまで十分に考慮が払われているかどうかということであります、このように述べております。 当時、こういう意見書が出されていることは大臣もおわかりですよね。
これは、今、北方領土問題でもいろいろと総理も御苦労なされていると思いますが、あのときも、核抜き本土並みかということがありました。 そして、原状回復のお金を誰が持つのかというような論議も、相当にこれは交渉が難航したと聞いております。 そして、VXの神経ガス、一万三千トン、一回これは事故が起こりましたから、これの撤去についての合意も大変だった。
しかし、住民が自ら運動によって民主主義を勝ち取ってきたという沖縄社会の経験は、核抜き本土並みの復帰という中で、温存されて持続している米軍基地が、現在でも続き、ますます厳しい基地被害が生活実感の背景にもなって、地方自治や選挙権の行使に対する思いや沖縄県内における選挙の投票率の向上につながっていると考えられます。
しかし、県民が願った米軍基地の全面返還ではなく、核抜き本土並みと日米政府が合意して日本に返還されました。核抜きは実現されましたが、多くの基地はそのまま存続し、米軍基地の負担は取り除かれることなく四十六年継続し、一層過重負担になり、いまだに新基地建設が続き、米軍関連の事件、事故が絶えません。 沖縄の米海兵隊と米空軍は、六十年以上休戦中の朝鮮戦争をにらんで配備されてきました。
その沖縄が、核抜き本土並みの日米安全保障条約の適用を前提に返還をされました。以来、国・県民の皆様の御理解のもと、我が国の安全保障の枠組みが成り立っているということを、委員の一人として常に肝に銘じなければならないと思っております。 一方で、我が国の安全保障環境が厳しさを増していることは私たちの共通の認識でありましょう。
沖縄どうですか、核抜き本土並みじゃないですか。沖縄はただで返ってくるとどんなに洪水のごとく流されたか。 ですから、その辺をバランスを取って考えなくちゃいけないと。そのためには、約束事とか了解事項だけは、何もプロセス必要ないです、プロセスはどんどんどんどん変化しますから。そういうことです。それに力点をもうちょっと置いてくれということです。
核抜き本土並みということをうたって、恐らく、核の疑惑があった岩国を初めとする、沖縄県の米軍基地も、全てそれが復帰とともに全部撤去されるだろうというふうなこともあったにもかかわらず、ついぞその建議書は渡されず、この建白書の中で、オスプレイの配備反対と普天間の県外移設という、本当にシンプルなんですが、全市町村長、全議会議長の連名をもって総理のもとへと上がってこられたわけです。
昨日も申し上げましたとおり、核抜き本土並み返還をその公約として頑張られたのは佐藤栄作総理であったと、こういうことを申し上げましたね。日米間の大きな問題であった普天間を解決したのは実に玄葉外務大臣、その当時の首相は野田総理であったと国民に言わすように頑張ってくださいよ。その逆であったら、その逆を想像したら、もう大変ですよ。
○山内徳信君 私は、今の大臣の言葉と、そして佐藤総理が言われた核抜き本土並みとか、あるいは県民が訴えていた核も基地もないと、この言葉を防衛官僚と外務官僚はきちっと胸に刻んでおいてほしいと思うんです。私が思うに、やはり政権は替わった、ところが防衛官僚は変わらなかった、そこにその後の沖縄の悲劇、基地の実態があるんだろうと思っておるんです。
○国務大臣(川端達夫君) 核抜き本土並みという核抜きは実現をしたという中で、本土並みというものをどういうふうに評価の物差しとして持つのかということでありますが、先ほど来御指摘のように、本土復帰から四十年たってもなお米軍の専用施設・区域が集中し、七四%も集中しているという状況であるという部分では、日本のほかの地域とは例を見ない地域であることは客観的事実だというふうに思っております。
したがいまして、当時の首相の佐藤栄作首相が沖縄県民に対しておっしゃった、あるいは日本国民に対して発した目標といいますか、復帰の目標、それは核抜き本土並みであるとおっしゃったんですね、核抜き本土並み。そういうふうに、県民と当時の政治の最高の責任者はやはり共通の認識に立っておられたと。 ところが、あれから四十年たつのに、核は密約という形で処理をされておるわけですね。
そして、佐藤総理は、核抜き本土並み返還を目指しますとおっしゃったんです。当時、沖縄には核があったという証拠なんです。そして、沖縄の基地の実態は本土並みに持っていきますよというのが総理の目指していた沖縄返還であったわけです。そして、当時の沖縄県民は、復帰することによって沖縄は基地のない平和で豊かな沖縄が実現するんだと、それを目指して復帰運動を闘ったわけです。
私は、佐藤栄作総理が、沖縄の返還は核抜き本土並み返還であるとおっしゃったんです。沖縄の返還は核を抜く、そして本土並みにするとおっしゃった。
そのため、大人たちは核抜き本土並みを訴え、祖国復帰運動に邁進してまいりました。 そして、昭和四十七年五月十五日、県民悲願の本土復帰がなされました。復帰により飛躍的な経済成長を遂げ、本土並みの豊かな安定した生活ができるのではないかと多くの県民が期待した夢は、無残にも打ち砕かれました。
対日講和条約のときにも、あるいは沖縄の日本復帰のときにも核抜き本土並みとおっしゃったが、依然として七五%の基地が今もあるというこの現実。そういうふうに何度も裏切られ、そして政治的差別が何度も行われてきたわけです。 したがいまして、今回は、鳩山総理のおっしゃった県外、国外へと、その訴えの責任といいますか、公約といいますか、約束といいますか、それを沖縄県民は県民大会を通して求めていくと。
さて、残りの時間で私は、核抜き本土並みは佐藤総理がおっしゃった、だから以前は核があったということですね。ところが、本土並みにはならなかった、基地の規模、面積はですね。そして、核密約があったことももう既にお互い知っておるわけでございます。 私も丹念に読んでみたんです。読んでみて、ああ、これは復帰前から現在に至って沖縄の人々が懸念しておる言葉がついに出てきたなと。
○国務大臣(岡田克也君) まず返還時の話でありますが、沖縄返還に当たっては、核抜き本土並みを基本方針として日米間で交渉を行った結果としてこれが実現し、一九七二年の沖縄返還協定によって沖縄の祖国復帰の運びになったということであります。そして、返還後の沖縄に核兵器があったことを示す文書も確認をされておりません。
○坂元参考人 私自身も、あのような文書がなければ、あの時点で、沖縄が核抜き本土並み、そういう形で返ってこれたかどうかということには、やや疑問を感じているわけであります。大きな文書だったというふうに考えております。表に出たものより、やはり踏み込んだものだったというふうに思っております。
○国務大臣(岡田克也君) これは、委員御指摘のように、四つの密約の三つ目、沖縄返還時の交渉において、当時の佐藤総理は核抜き本土並みということを強調されました。しかし、密約として、緊急事態においては核を持込みをすることが可能であるという旨の約束、合意が両首脳間であったというものであります。 まず、外務省の調査の時点では、十一月の末までなんですが、文書は全く発見できませんでした。
それから、先ほどの核の再持ち込みの密約でありますが、確かに核抜き本土並みということで沖縄返還を実現したわけですから、そういう意味ではこれは表で言っていたことと実際違うということは言えると思います。
この時代は、七二年の沖縄の返還を前にして大変な国民的な議論が続いていた時代だったわけですけれども、沖縄の核抜き本土並み返還ということを信じて、当時、多くの人たちがいろいろな行動に参加をした、私もその後からついていった一人なわけですけれども、これが今度の密約によって物の見事に裏切られていたのだなという思いをするわけです。
○武正副大臣 沖縄返還に当たっての、核抜き本土並みを基本方針として米側との交渉を行った結果、これが実現をし、一九七二年、沖縄返還協定、祖国復帰ということになったわけであります。 ただ、今回の調査の結果、本件合意議事録は外務省の文書からは発見されず、また本件文書について、当時、外務省として何らかの関与または知識があったことを示す文書の存在も確認されなかったということでございます。
七二年五月十五日の沖縄返還に際して、佐藤総理は核抜き本土並み返還であると言われましたが、沖縄におけるこの核抜きは本当に実現したのか否か。もし今日までその事実の検証が行われていないとすれば、これからも検証する必要があると思いますが、外務大臣、どういう御認識でございますか。
そういうところは、生物兵器、化学兵器、核兵器が貯蔵されておるというのが沖縄の人々の一般的常識といいますか、そういうふうに感じておりまして、是非、新しい政権として、この核抜き本土並みが実際に実現したか改めて検証してみたいと、そういう前向きのお考えございませんか。
○国務大臣(岡田克也君) 核抜き本土並みということで、当時の佐藤政権の下で沖縄返還が実現したわけであります。 私は、やはり両国政府がきちんと合意をして、そして、そのプロセスを見ても、核の再持込みについてさんざん議論を行ってきたということを見ても、いったんは少なくとも核はない沖縄、そういう形で返ってきたことはこれはもう間違いのないことだというふうに思っております。
佐藤栄作総理大臣は、昭和四十七年一月二十九日の第六十八回国会における所信表明の中で、一九六九年の日米共同声明並びに沖縄返還協定にあるとおり、核抜き本土並みの原則の下にその実現を見るのであります、このように国民に高らかにうたわれました。
沖縄返還のときの密約、そして佐藤総理は沖縄県民に対して、沖縄の返還は核抜き本土並み返還とおっしゃって沖縄県民を喜ばせておりました。 そして、今日は、ここで私も井上議員と質問はほぼ一致いたしますが、これから順次進めてまいります。北米局長にあらかじめお伺いいたします。 中曽根現外務大臣を尊敬し、信頼しておりますか、お伺いいたします。(発言する者あり)笑い事じゃないですよ、これは。